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100年に向けた歩み 実習桑園から附属農場へ ・・・ 生物資源フィールド科学研究部門

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行松 啓子 氏 (Kプランニング)

「タイ東北部の絹手織物」

 

 

▶要旨・概要

  タイ国の工芸品として知られるタイシルクは、独特の光沢をともなった多彩な色模様を特徴とした絹織物である。日本でもタイ国の土産物として目にすることが多い。今日では高級な洋服地として重宝されているが、本来は、タイ東北部に居住する諸民族の民族衣装としてまとわれてきた布であり、生活必需品でもある。タイ国の養蚕地域でもあるタイ東北部では、家々の庭先や屋内でカイコを飼育し、糸をつくり、布を織ることが伝承されてきた。タイ東北部は、北部地域がラオス、南部地域がカンボジアと国境を接し(図1)、両国の影響を受けながら、タイ国の中で他地域と異なった独自の文化をもつ地域として知られている。民族衣装や日常必需品としての布をつくるという染織文化においても、独自の繰糸法や、民族独自の染織技術は、彼らの生活の一部として溶け込み、自然循環の中の一部として組み込まれている。

  しかし、今日では、タイ東北部における染織文化は大きく変貌し、「カイコの飼育をやめた」、「糸をつくらなくなった」、「織ることをやめた」ということは珍しくない。1999年に開始されたタイ国の一村一品運動(OTOP)にともない、生産効率をあげ、商品としての絹織物を生みだすために、多くの村々には、これまでになかったあらたな技術や分業などの生産方式が導入されはじめた。また、絹織物の原料となる生糸は、タイ東北部で使われてきた熱帯性の気候に適応した多化性蚕品種の繭から手繰りした生糸ではなく、温帯性の二化性蚕品種の繭から自動繰糸機で繰糸した生糸をもちいることが、1990年以降タイ国の政策として推奨されていた。特に2000年以降は、この生糸の使用が商品としての絹織物には不可欠とされるようになった。この絹織物が、「タイシルク」として私たちが認知しているものである。

  一方、このような現状とは別に、伝統的な染織文化を継承している人々が、わずかではあるが残っている。彼らが受け継いできた多化性蚕品種の養蚕は小規模で、農業を営む主婦の家事労働の一つに過ぎず、産業とは程遠く、繭を出荷、販売することもない。農家の主婦が自らカイコを飼育し得た繭で糸をつくり、自家用の織物をつくるという自給自足的な養蚕である。つくられる織物の品質はもちろんのこと、糸質にこだわることもない。多化性蚕品種の繭からつくられる生糸は、古くから織物のタテ糸には不向きとされてきたが、彼らのつくる絹織物は、タテ糸、ヨコ糸共に、多化性蚕品種の繭からつくられた生糸がもちいられている。これらタイ東北部で受け継がれてきた養蚕、糸、絹手織物についてその伝統的な技術や手法を、現在流通しているタイシルクと比較しながら解説する。

 

 

一田 昌利 教授

京都工芸繊維大学 生物資源フィールド科学研究部門 資源昆虫学研究分野

「白寿を迎えた嵯峨キャンパスってどんなとこ?」

 

 

▶要旨・概要

1.はじめに

今年、京都工芸繊維大学(KIT)の前身校である農商務省立京都蠶業講習所が1899年6月に創設されて120周年を迎えました。そして、実習桑園として設置された嵯峨キャンパスは98年、白寿の年を迎えました。その歴史をご紹介しながら、あまり皆さんがご存じない嵯峨キャンパスのことをご紹介していきたいと思います。

2.京都蠶業講習所開設

1899(明治32)年に葛野郡衣笠村の京都蠶業講習所が創設されました。北側を一条通りに、南側は下立ち売通近くまで伸びる長方形をしていました。開所当時の配置図を見ると、北側が正面で左右に桑園が配置され、南へ進むと正面に事務室、教室、試験蚕室、伝習蚕室、簡易蚕室などの施設が現れ、南側の2/3は桑園でした。

初代所長は松永伍作先生です。蚕の飼育標準表を初めて考案された方です。残念なことに在職中に病をえて56才で亡くなられています。北野神社の北門を出たところの左側に松永伍作氏顕彰碑が聳えています。京都市内にある石碑の中でも大きなものの一つです。第2代所長は石渡繁胤先生です。後世微生物農薬として注目された卒倒病菌(Bacillus sotto)の発見者であり、幼虫期の性徴の一つである石渡前腺・石渡後腺の発見者です。第3代川島勝次郎所長の時(1914(大正3)年)に文部省に移管され、京都高等蠶業学校となります。

3.嵯峨に実習桑園設置

 高等蠶業学校に転換後、学科の壮絶、施設の拡充が計画され、それに学内の桑園が当てられ、桑園が不足することになり、新しい桑園の設置が急務となりました。そこで1921(大正10)年用地の買収が行なわれ、教職員と学生の協力の下圃場整備が進められ、1922年3月には桑が植付けられ、嵯峨桑園が開設されます。

4.その後

 1949年の学制改革に伴い、京都工芸繊維大学が誕生します。それに伴い実習桑園が農学教育のための疏泄として附属農場に生まれ変わり、農場長職が置かれ、教員も配置されます。さらに、蚕の飼育が積極的に実施され、1977年からは新しい時代の養蚕システムとして、人工飼料飼育棟、飼育機械(多段循環型飼育装置)を導入した壮蚕飼育棟が新設されました。その後、日本国内の養蚕業の衰退と今後の農学教育の変化に対応するため、生物資源フィールド科学教育研究センターとして改革が加わり、現在に至っています。

6.嵯峨キャンパスの不思議と秘密

 嵯峨キャンパスには皆さんがご存知でない面白いことや不思議なことがあります。1トンのナイロンロープ埋設、大麻栽培、映画撮影、御下賜建造物、円山公園の桜、ゲンジボタルとプラナリア、京都府下有数の養蚕家などなどのお話をお聞き下さい。